こんにちは、まーこです。今回はイサンの側室のソンヨンについて書いてみたいと思います。
イサンは2007年9月~2008年6月まで毎週月曜と火曜日に韓国の放送局MBCで放映されました。李氏朝鮮22代国王の正祖の実在の人物のドラマです。
歴史上、聖君として言われている正祖は朝鮮王朝の中で最も波乱万丈の生涯を送ったと言われています。イサンの父親の荘献世子(思悼)はイサンが11歳の時に朝廷の派閥の政力の陰謀に巻き込まれてしまい謀判の罪を着せられてしまう。
そして、荘献世子(思悼)の父親である第21代王英祖により、水も与えて貰えず、あの米櫃事件で亡くなってしまいます。
幼い頃から友情を育んできたソンヨンやテスや側近のホン・グギョン等に支えられながら、王様としての使命を果たします。
そしてソンヨンとは幼馴染であり、ずっとイサンのそばに居る存在でした。しかし、王様の寵愛を受け側室になり、最も愛された側室と言われてます。
そして正祖(イサン)との間に子供は?またドラマでもイサンよりも先にソンヨンが亡くなっています。ソンヨンの死因が病気だったのかも調べてみました。
ドラマではハン・ジミンがソンヨンの役をやっていますがハン・ジミンの人気は絶大だったようです。日本の男性ファンも多かったようですよ。(^_-)-☆
イ・サンの側室は4人いた?
正祖(イサン)の生涯には正室ひとりと4人の側室がいました。
実は正祖と正室の孝懿(ヒョイ)王后金氏は人徳が有り、朝鮮王朝の42人の王妃の中で誰からも尊敬される程の聖女と呼ばれる方だったそうですが孝懿(ヒョイ)王后金氏の間には子供が出来なかったのです。その為、世継ぎが必要になり、4人の側室が選ばれたのでした。
最初に常に正祖の敵を排除するのに貢献してきた第22代王英祖の時代から側近中の重臣の洪国栄(ホン・グギョン)の12歳の妹の元嬪洪氏を側室にします。しかし12歳では子供を産める歳ではありませんでしたし、元嬪洪氏は正祖の側室になり、たった1年で亡くなってしまったのです。
そして次に側室に選ばれたのが和嬪尹(ファビンユンシ)でした。しかし残念ながら和嬪尹(ファビンユンシ)にも子供は出来なかったのですね。
そして、宣嬪成氏(ウィビンソンシ)を側室にしますが、宣嬪成氏(ウィビンソンシ)は以前から正祖から趙愛を受けていたそうですが、側室になる事は断り続けていたのですね~正祖もずっと好きな人から固辞されて、やっと自分の者になった時は、さぞ嬉しかったでしょうね(#^.^#)
どうやら側室になる事は固辞していたので女官の身分の時に子供(文孝世子)を産んだようです。
それで側室になる事を決めたのですね。しかし、文孝世子はなんと5歳の時に病気で亡くなってしまうのです。(涙)親にとって我が子を亡くす事が人生で一番辛いことですよね( ;∀;)
そして、4人目の側室が綏嬪朴氏(スピンパクシ)です。綏嬪朴氏(スピンパクシ)の産んだ長男の純祖が正祖(イ・サン)の後の第23代王になりました。
・元嬪洪氏(ウォンビンホンシ)
・和嬪尹(ファビンユンシ)
・宣嬪成氏(ウィビンソンシ)
・綏嬪朴氏(スピンパクシ)
側室の中でも宣嬪成氏(ウィビンソンシ)が正祖に最も愛されたそうです。イサンのドラマに出てくるソンヨンは宣嬪成氏(ウィビンソンシ)をモデルにしたと言われていますがドラマの中でも正祖(イサン)とソンヨンの絆の深さは、切なくなるほどの愛情に包まれていましたね( ;∀;)
イ・サンの側室、ソンヨンは実在した?
ソンヨンのモデルとなった宣嬪成氏(ウィビンソンシ)は1753年陰暦7月8日に誕生し1786年陰暦9月14日に亡くなったと言われている実在の方だったのですね。女官で宮廷に入り正祖の求愛を受けましたが、何度も断ったそうです。有名なはなしだそうですよ。そして側室になりましたがやはり、正祖が生涯一番好きだった女性なんですね。しかし、33歳の若さで亡くなってしまったのですね( ;∀;)可哀想に・・・(涙)
1753年陰暦7月8日に、成胤祐の娘として誕生する。名は徳任(ドクイム、덕임)。父は、洪鳳漢(正祖の外祖父)の召使いであった。その縁もあり、恵慶宮洪氏(洪鳳漢の娘で正祖の生母)の伝手を頼り、女官となった。 1773年に、正祖の妹である淸衍公主、淸璿公主らと共に小説『郭張兩門録』を筆写したという記録が残っている。 また1766年頃に、寵愛を受け始めていたという。しかし正妃である孝懿王后に遠慮して、固辞した。 1782年(正祖6年) 陰暦9月7日、女官身分で王子(文孝世子)を出産し昭容になった。 翌年2月に宜嬪になり、1784年(正祖8年) 旧暦7月2日には王子が正式に世子に冊封された。
ソンヨンは宣嬪成氏(ウィビンソンシ)をモデルにしていますがドラマのソンヨンと全く同じではないようです。
ドラマのソンヨンは幼馴染としてずっとそばに居て、宮廷の女官になってから、王様の寵愛を受けますがなかなか受け入れなかったソンヨン。ドラマでは後半近くなりやっと正祖の側室になるのですね。(;’∀’)その少し前には、正祖(サン)の祖父の朝鮮第21代王英祖よりソンヨンは今までのお礼とサンの事を頼むと指輪を渡されるのですが、その指輪こそがあの名作『トンイ』のドラマに出てくる指輪!英祖の母トンイの指輪なんですね。
イ・サンとソンヨンの子どもは誰?
イサンのドラマに出てくるソンヨンはイ・サンとの間の第一子のヒャン王子 (文孝世子(ムニョンセジャ)がいました。しかし(ヒャン王子文孝世子(ムニョンセジャ)は5歳の時に麻疹に罹かってしまい、5日後には一旦良くなり、イサンもホッとしたのは束の間、10日後に亡くなってしまったのです。その時、ソンヨンのお腹には第二子が宿っていましたがイサンとソンヨンの悲しみは計り知れないものが有ったと思います。
ヒャン王子は1782年9月7日に生まれましたが正室に子供がいなかったとの事でわずか2歳で世子になったのですね。
だた、ドラマのソンヨンは宣嬪成氏(ウィビンソンシ)をモデルにしていますが、ドラマの方は多少フィクションもあり、全く同じ人物としては描いていないと思います。
ドラマでは2人目の子どもを宿している時にソンヨンは他界してしまいますが、史実では1782年に文孝世子を出産し、1784年に翁主を出産しますが出産してすぐに亡くなってしまったそうです。
そして1786年には麻疹により文孝世子が逝去してしまいます。同年、3人目を妊娠したまま
宣嬪成氏(ウィビンソンシ)も亡くなってしまうのですね。本当に可哀想ですね( ;∀;)
ソンヨンの死因は病気?
イ・サンのドラマでは73話では待望だった文孝世子(ムニョンセジャ)が
わずか5歳で亡くなってしまい、74話でソンヨンは亡くなりますが、どちらもドラマの中で号泣を誘うシーンです。観る方は必ずタオルが必要になります(号涙)
ソンヨンは大切な息子の文孝世子(ムニョンセジャ)が亡くなった時、お腹に新しい命が宿っていましたが、病魔もソンヨンの身体を蝕んでいたのですね。ソンヨンはイサンやテス、重臣たちに自分の病気を知られたくなかったのです。(涙)
どやら肝臓癌に罹ってしまっていたのです。王宮を出て、誰にも迷惑を掛けないように一人で出産する事を決めていたのですね。しかし、医者からソンヨンの病気を聞いたテスはソンヨンの部屋に行きますがもう出て行った後だったのですね。テスはイサンに伝えます。そしてテスたちはソンヨンを王宮に連れ戻すのでした。
ソンヨンの病をしったイサンはあらゆる手段でソンヨンの病気を治そうとします。テスとソンヨンの弟ウクに清国に行って肝臓癌も治せる医者を探させることもします。(正祖は心からスンヨンを愛していたのが良くわかりますね。)しかしその間にソンヨンは治療のかいもなく、亡くなってしまいます。兄妹のように
慕っていたテスとウクが清国に医者を探しに行っている間だったので最後は逢えなかったのですね(涙)イサンはなんとしてもソンヨンを治したかった気持ちがテスにはわかっていたので仕方がなかったのかもしれないですね( ;∀;)
史実の宣嬪成氏(ウィビンソンシ)は妊娠中毒だったのではないかとも毒殺ではないかとも考えられたそうですが医学の知識が有った正祖は宣嬪成氏(ウィビンソンシ)の薬は自ら調合して与えたとの話しもあるので毒殺説は薄いと考えられたそうです。
宣嬪成氏(ウィビンソンシ)は悲劇の側室と言われていますが、次々と子供が亡くなり、第3子の妊娠中に自らも亡くなってしまうとは本当に可哀想ですね。
ドラマのソンヨンも正祖にとってはかけがえのない存在だったのですね。そしてソンヨンも最後の最後まで命が尽きるまでイサンの肖像画を描いていましたね。
そのシーンも涙なしでは観られないシーンでしたね。ソンヨンが亡くなる時はイサンの腕の中で『ヒャンの元へ行きます』と言って息を引き取ります。本当にタオルが何枚も必要なドラマでした。
是非、観ていない皆さんにもご覧になって頂きたいドラマです。( ;∀;)
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